Vol.9 なぜ僕たちは、小さな島に惹かれるのか
2013年8月23日
2013年6月18日(火)
琉球庵へもどり、荷造りをして、宿をあとにする。リョウタさんのお母様が玄関で見送ってくれる。ゲストハウスというよりホームステイをしたような気分で、たった2泊の滞在だったが、濃い時間を過ごせたような気がする。座喜味城跡へ。一昨日、英ちゃんと訪れたが、写真を撮っていなかったので、再度、訪れる。平日のせいか、人の姿はほとんどなく、ゆっくりと撮影できた。ただし、大粒の雨が、ときおり落ちてくる。この雨粒がレンズについていたようで、あとで現像したとき、写真にぼんやりベールがかかったようになっていた。とうていプロの写真家にはなれそうもない。
座喜味城は、首里王国のグスク関連遺産群として、世界遺産にも登録されている。最近、富士山が世界遺産になり、マスコミがあおり立てるせいか、登山者が急増しているようだ。おなじ世界遺産でも、座喜味城はひとけもなく閑散としていたが、妙に心をしんとさせる何かが漂っている。
あとで聞いた話では、座喜味城の城壁にぶつかった気が落ちる場所、すなわち、風水でいう「穴」が近くにあるそうだ。沖縄戦のときには砲台としても使われていた座喜味城だが、この閑散とした静けさのなかにも、歴史のさまざまな気が、記憶が、悲喜などが、眠っているように思えてならない。
城をあとにしてから、近くにある長浜ダムへ。時間があまりなく、そそくさとダムをあとにしたが、農道を走っていて、つい車を停めてしまう。いつもの悪いクセで、何の変哲もない一本道を見ると、写真を撮りたくなってしまうのだ。
おまけに、その道の上には、せりあがるような巨大な雲が伸びている。坂の上の雲か・・・。車を出て、農道に三脚を立てていると、心地よい浜風が吹きぬけてゆく。いいなあ。
畑と道と雲と海。取り立てて特筆すべきものは何もない。そんな風景になぜ自分は過剰に反応してしまうのか。これは、長年の研究課題でもある。じっくり考えてみたいところだが、飛行機は待ってはくれない
今回の出張の最後の締めとして、またぞろ番所亭へ寄り、遅い昼食をとる。またしても、紅ざるの大盛りとジューシーを注文する。保守的このうえない。
食事を終え、58号線を那覇へ向かって走りはじめるが、途中から雨脚が強くなり、宜野湾あたりから猛烈なスコールとなる。数メートル先がかすむほどの土砂降りで、飛行機が飛ぶかどうか、心配になる。が、これくらいの雨では、まったく問題ないように飛行機は雨の空港を飛び立った。
しばらくすると、眼下に奄美大島が見えてきた。奄美をすぎると、奄美と喜界島が夕陽を照りかえす海に浮かびあがる。小さな島に惹かれるのは、なぜだろう。本州も島にはちがいないから、いつも不思議な気がする。
小さい、というところがミソかもしれない。ほんらい小さな僕らは、大きくなりすぎてしまったのではないだろうか。大きく、広く、たくさん、という欲望を満足させようと、人々は、つねに過剰を求めつづけている。
小さな島は小さく暮らすしかない。そこになにか、暮らしを楽しむ知恵があるのかもしれない。1万メートルの上空でそんなことを妄想しながら、僕は機内で買った小さな缶ビールを飲んだ。
(つづく)