Vol.7 それぞれの、旅の作法
2013年8月21日
2013年6月17日(月)
まだ読谷にいる・・・このブログのなかでは。昼寝の誘惑をたたみこみ、車へもどる。渡具知ビーチをでて、農道へ折れる。どうでもいいような脇道にまぎれこむ性癖が、僕にはある。農道の直角の曲がり角に、アメリカ人の中年の女性がいた。大きなセントバーナードを二匹、連れている。散歩だろう。僕の車が近づいたので、犬を呼び寄せている。僕は社内で頭を下げ、徐行しながら先へ進む。
鳥居通信施設にぶつかって左へ折れると、木綿原遺跡があり、すぐビーチへ出られる。車を路肩に停め、ゆっくりビーチへ歩いてゆく。陽射しがまぶしく、相変わらずうなじが焼けるようだ。時計を見ると、午後6時。まるで、正午のような空だ。
ビーチへでる藪の切れ目に大きな木がぽつんと立っている。モクマオウだろうか。呻吟しながら体をひねっているような形に見とれる。海風のせいで、そんな姿になってしまったのか。ビーチは白い砂浜がつづき、ひとけもなく、ひっそりとしている。
鳥居通信基地の前にある浜のほうへ歩いてゆく。アダンやソテツが伸び伸びと育っている。かりゆしウェアを着て、ビニール袋をもち、サンゴか貝殻を拾っている男性の二人組。タンクトップに短パンの若いアメリカ人カップルが、これまた下を向いて、ときどきしゃがんで何かを手でつまんでいる。浅瀬には、パドルサーファーが一艘、何をするでもなく、海の上に立ちつくしている。
波打ちぎわには、アーサーがびっしりと打ち上げられていて、ビーチの中ほどまで打ち上げられたアーサーは、サンゴと同じくらい真っ白に脱色されていた。その上をあるくと、スポンジの上にいるみたいだ。
何枚か写真をとって、58号線に戻る。鳥居ステーションを左に見ながら、基地をぐるりと回って、楚辺の浄化センターへ行く。
門扉は閉まっていて、駐車禁止となっていたが、車を停める。すぐ隣が公園になっていて、きれいに整備されている。ホースが無造作に投げ出してある。水をまいたのだろう。地元の中学生と小学生の4人のグループが、地べたに座って、なにやらゆんたくしている。僕をみて、にやにやしている。
「ユーバンタって、どこ?」とたずねると、「そこ」と言って、笑いながら背後を指さした。小さな浜で、ひとり、泳いでいる人がいた。公園の南側には、アーサーがびっしりとついた岩場が広がっている。不思議な光景だ。かなたに、北谷の街並みがみえる。
写真を数枚撮り、少年たちに「ありがとう」と言うと、「さようなら」と元気な声が返ってくる。帰路につく。歳のちがう近所のこどもたちが、西日の射す浜辺にたむろしておしゃべりしている姿に懐かしさがこみあげてきた。昔、子どもたちは、あんなふうに遊んでいたなあ。
58号線に戻るとき、そういえば、さっき、サンエーがあったな、と思いだし、夜の食事を仕入れようと、58号をすこし戻る。宮古島でもよくサンエーに買い出しにゆくが、宿の人から、「サンエー派」ですね、と言われた。僕は、そうです。と答えてから、サンエーのポイントカードを見せるのが、ゆいいつの自慢だ。どうやら、サンエー派、カネヒデ派、マックスバリュー派などの派閥があるらしい。
サンエーで、セイイカとカツオとまぐろの刺身盛り合わせやサラダやジューシーおにぎりやビールなどを買って駐車場へ戻ると、空が燃えていた。ああ、日没までビーチにいるべきだったと後悔したが、まだ間に合うかもしれないと、都屋漁港のほうへ降りて行く。漁港の端にある堤防の隣にある小さな浜へ降りて三脚を立てる。かろうじて、数枚、撮ることができた。
それにしても、おれは一体何をやっているんだ、という疑念が頭をもたげてくる。取材してるのか、遊んでいるのか、漂流しているのか・・・よくわからない。
思えば、いつもそんな旅の仕方をしてきた。宮古島の写真集をつくったときも、同じだ。その土地の文化も歴史も、見ないようにする。いま、そこに暮らす人たちの姿を、少し離れて見る。孤島に漂着した遭難者のように、ただ、自然だけを眺める。
十代のころから、そんな旅ばかりしてきたことを思い出す。人の旅の仕方というのは、人の数だけあるかもしれないが、その人の旅の仕方というのは、おいそれと変わるものではないんだな、と思う。
だから、なんなんだ、と言われても困るが、旅というのが、つねに、たった一人の自分ととことん向き合うことなのだと、久しぶりに思いだしたのである。帰るところがあるから、旅は楽しいんだと高見順は言ったが、この寂しさに面とむかえるから旅は楽しいんだな、と琉球庵へ向かって車を走らせながら考えた。
(つづく)